変身 フランツ・カフカ

ページ数の本当に少ないページで本の読み慣れている人なら1時間もかからず読み終えられるものだろうと思う。

いつも時間が足りないと、時間配分が下手な私はそれでも何日か掛かってしまったが、楽しすぎて(この悲しい物語を楽しいと言ってはならないだろうけど)、文章の味?を噛み締めながらゆっくり読んだわけで、むしろ何日もかけて、グレゴールお兄ちゃんのことを思い描けて良かったと思う。

脈略もわからず提示されて、訳も回収してくれないものが、最近はとても多い_エヴァもそうだし。最近は呪術廻戦もついていけない。歳か? 

現代アートもそうだし、独立映画、音楽にも、そういうものがたくさんある。大体それらは味が悪い傾向があって、ー消化できないからずっと口の中に残るので、味が悪いと感じるのか、直ぐに飲み込めない何かがそんなに嬉しいわけがない。

作品の1ページ、最初の文章「ある朝、グレゴール・ザムザが落ち着かない夢にうなされて目覚めると、自分がベッドの中で化け物じみた図体の虫ケラに姿を変えていることに気がついた。」(角川文庫 川島隆、訳)これはとてもおしゃれなものに感じる。

まるでNマークでDUDUnnnnn-ってなって10秒以内で見られるコンテンツのオープニングとして、文字その通りのそのまま映像が流れても全く違和感がない。1883年生まれの作家の作品だと、わざわざ調べないと全く気がつかないーそうね、、ブラックミラーのようなシリーズになってくれたら少なくとも私は見ると思う。

パッと思い出せる作品がありすぎて定まらないが、極めて説明不足な不親切な現代アートピースにも似ている。(大体の現代アートがそうだと言いたいではない)

何もない白いホワイトキューブなところになんの説明も情報もない状態で置かれている設置物のようなイメージ。(巨大な見たことない醜い虫というだけにだが、ここでは昆虫への差別よりもこの作品全体が持つ雰囲気と、説明不足なところが特に) 

もしくは、何で出来ているか、どんな味か、美味しそうだが美味しそうでもない、高い高いファインダイニングの一品みたいな……….

[変身」あまりにも有名な作品だから、内容やメッセージのに関する情報はすでに溢れているだろう。

この作品も非常に興味深いが、作品とピッタリセットになっている訳者解説もなかなか充実している内容だった。作品と、作者へ向けられるファンダムを作るような装置のように感じられる。しかも専門家から見るこの作品の、作家の凄さはこんなもので、こんな背景で作られてて、カフカの家族、友人、恋人まで、まるでウィバースでBTSの情報を仕入れられるほどのオタク的な熱量と情報量である。

インパクトと強い問いを残すショート作品と、ファンダムへ導く案内書の組み合わせ(資本主義が本格化する時代にユダヤ人の動きと社会との関係について詳しく学べる歴史背景に関する知識付き。もはや付録。)しかも全て合わせて174p。価格ワンコイン。

最強すぎる。

グレゴールお兄ちゃん。働けなくなって退職した老人のメタファーなのか、家族を家族と言える基準と境界線は何なのか。労働の意味についてか、人間と非人間の境界か、今でも解決できない疑問は100年前でも同じだったのね。たくさん疑問を残して、静かに行ってしった。

後ろの解説の部分に、作家と他人の人間関係についてたっぷり説明があるがすごく印象的である。本人が考えているほど、言っているほど、父は彼に対して威圧的ではなく、母と父の関係において母も彼のいうところとはかなり違っていたとか。それっぽい作家像を作り上げるために要するにイメージ管理しているといったところ。

家族や人間関係をあくまでも素材としているところ。

これは作家あるあるなのか。私の狭い偏見ではこれが作家という種族の特徴なのか。

それともたまたまこのような人もいたのか、分からないが、ちょっとした同一族のような性格上の一面を感じる。

とはいえ=素材の出所がわかったとは言え、今の時代でもこうやって文学と関連性の遠い私の手にも届くほど世に知られる作家となって、このくらい小さい文字数でこれほど大きいインパクトを残せるものだ。

彼の人生と彼の周りの人間がどれほど幸せだったかはともかく。

作品が残る意味のありがたいさと凄さをもう一度感じる。

2026.1

1984

なんの事前情報なく完全に小説を読む時の楽な状態で読み始めた。

読み終わった後もかなり長い時間後を引いたし、読む間も数回、中の出来ことについて考えさせられる(無理やり考えざるを得なくさせられ)読み終わるまですごく時間かかった。そして整理して文字で残すまでも今まで読んだ本の中で一番時間がかかっている。

背景を少し探してみると、作者の戦争参加による体験、故郷に戻った時の政治的な状況に基づいたものと知って、ある意味少し安心した。何かの預言者である日こんな内容が降ってきましたで書かれたものなら、世の中でどんな頭脳がどのタイミングに何に気がついて、何が始まっていくのかという当てもない不安がさらに掻き立てらる。

本当に恐ろしい物語だし、それが物語ではないということ。事実として進行過程でいることを確認するたびに、そのジャンルが文学だろうが、予言だろうが、恐ろしい。

本当に。恐ろしい。

読み終わった後にAIに2つ聞いてみた。この本をやたら名門大学の学生が読み込んでいる理由。そして1984の時代は来るかについてどう思う。

1つ目は、支配側の教科書であり、支配される側の教科書でもある。という理由で読む。つまりいかなる方法で人はコントロールされるのかに対するマニュアルブック。もう一つはまだその世界に到達していない状態でいかにそれを遅らせられるか。いかに効率よく足搔くかの反面教師のような資料として。

2つ目については即答でこの世界は確実に来る。

という嫌な答えを確認するまでもないのにわざわざ確認しておいて、後悔した次第であった。

小説中では(何かの)テクノロジにより一気に生活が安定し、一生懸命に収入を得なくはならないことから解放された人類の階級を狂わせることをよしのしない支配層(富裕層)が、ドイツやソ連から得たものを更にグレードアップし、崩壊しない完全な監視社会を構築するという設定などだが、このテクノロジーによる生活の安定。収入のため命を削らなくてもいいというフレーズを、もう小説として眺められない。つい昨日かイーロンさんは3年以内に貨幣の価値はなくなるといったそうだが、小説中では仮のこのAI技術が出た後50年で、ビックブラザーの支配する社会になるという。

人の思考をできなくする方法としてニュースピック、イングソックという概念がある。

言葉を極限まで減らすという方法で、大体の形容詞はまずなくなるだろう。

いい、悪い、という表現においては悪いという単語をわざわざ使う必要性がないという話で、いい、悪いはいい、よくないになる。今まで使っていた言葉が数ヶ月後は誰も使わない言葉となり、その言葉を使いつつけるとマズい空気になる。というもので、

これも、やはフィクションだとは思えない概念である。

NZだとかZだとかの世代で使う言語は変わっていてどんどん短くなっている。韓国語なんかは本当にありとあらゆるものを短くする。

SNS用語も別にある。

古典を読んでいて、これって、、、なんだっけと思う時があるのって。普通だと思う。

言葉は確実に減っている。それも我々が進んでそれをやっていないかな、遠も思う。

二重思考というものも出てくる。

国家は過去の過ちから学び我々を良いところに導くと100%信頼しながら、

国家は絶対で1度も間違いがないと100%考えることで、これは子供の頃から訓練することによって身に付く。まるで超能力だ。

改装して書いているので、思い出すからなお恐怖を感じる。

今まで生きてきてこれらよりも恐ろしいものはないと思う。TT _TT

資本主義に疲れた人々が選ぶ平等への憧れは社会主義に自然と流れる。

思考は少なく、短く、なくなっていく。AIは人にとって買われる。ビックデータ企業は実際に存在する。50年後(数字は大事じゃない)いきなり空が見えないほどのミサイルで空爆があって、気がついてみると全てが変わっていく、変わっている。。

こんなことを考えながら読まなくちゃいけない本である。辛い!!!間違いなく辛いぞ!!辛い怖い分だけ大事だ。

話がそれでしまうが、ふとこんなのも考えてみる。

昔の人は体に服を合わせて作っていた。袖、肩、腰、裾の長さも自分に合わせて家族で作るか、作ってもらうかの時代。私たちはXL、L、M、Sで大体別れる。120,130,160,とかもある。今だってお金を出せば作ってもらえるけど、1から自分の体に合わせるって、ウェディングドレスもそこまでしない。

昔の人が、今の自分らをみると、なんて荒くなんて雑だろうと思うではないか。

みんな服に自分の体を合わせているものだから、むしろ哀れだと思える。

小説のウィンストンに視点を変えてみる。

ゴムが腐った匂いのジーンを飲み(飲んだ後は必ず全身痙攣する不味すぎてだと思う)、24時間寝言も監視されるテレスクリーンと死ぬまでの付き合いになる。カミソリは手に入らないし、50年以上文明は退化していると感じている。でもそれがその人の生きる時代だ。テクノロジーは発展し、そして意図的に退化させられている。

ウィンストンは経験していないが、おそらく今のこの時代を憧れる。

何かが狂う前の今の時代。昔からすると、とんでもなく荒くなっているけれど、

表現の自由と、個人の心の中の自由がまだ許されている(ような形で了承される)この時代に憧れる。心の中までは支配できない。できるか。いや、できない。と思う。

ここで、作品と結びつけて考えを巡らせてみる。

幸いまだ我々にはまだまだ豊かな言語もあるし、表現できるツールもたくさんある。

文学、ファッション、音楽、アート、芸術の範囲は広く、作家だちはその境界を拡張することへの意志と動機が持てる。持てる自由がある。

どんな環境でも、何をされても、人の心の中は、自由だ。とばかり思えたであればあるほど、この本は怖いものになる。

目に見えない、形のない暴力は人の自由と発想とやる気を完全に無気力化することができる。

1984の暴力は外側から殴りつけるものではなく、内側の構造に入り込み、形そのものを書き換える力だと分かる。

自分には最終的にウィンストンが自分自身の監視者へ変わり、自ら進んで自分を再構築することが最も恐ろしい部分だった。憧れた時代への情熱も、愛も、疑いもなくなって完璧に再構築を遂げていく過程が、つまり、完璧に支配される側へと変わる様子が生々しくて…

1984が描く暴力は破壊ではなく、再設計としての暴力であり、

作品NocedraやFlowerもその点の脈略を同じくしている部分を発見する。

おそらく自分の描いている花や、Nocerdraで表現する痛みの抽象的なアウトプットは、ウィンストンが自分を守る(自分の心の自由を)ベく最後まであがいた結果の状態に近いと思える。

作品で表現しているものは確かな私自身の体験、経験からきた痛みで私の知っている痛みで、自分なりにそれに対抗し足掻いた結果出せる表現であるのは間違いない。

外部からくる暴力、コントロールに対して、痛みそのものを視覚化する。それが表面的な制作の動機だった。

自分の個人の情報を全く発することのできない社会からみると、とんでもない反逆者だ。

純粋な権力そのものだけを望む支配層からみると、個人が自分のやられ具合を表現する、発表する、知らせる、共感を得ようとするなんて、真っ先に101室に連れて行かれるやつだ。

しかし、それだけではとてもとても話にならないほど弱いのも発見する。

結局ウィンストンの心は綺麗に再編集、再構築された。生まれ変わってしまった。

痛みだけを訴える作品の限界もそこにあるのだろう。

まるで痛みを解らない人(がいたと想定して)でも、いかにして、人は痛みを感じ、いかにして誰かにコントロールされるのかを、構造的に理解できる作品にしなければならない。

どうせ、それっぽい時代がきてしまうのなら、

1日でも、遅らせたほうがいい。

今の自分はプロールではないか?

ジュリアになれるか。もしくは魅力的なオブラエインになれるかな。

この瞬間をどう生きたほうがいいのか。ーまじで難しい。

 2025.11.2

nocedra 部分

ハンガン「別れを告げない」

한강.작별하지않는다

この本が2度目のハンガン作家の本だった。済州島は今は遊び場だ。人々は休息と美味しい美味しいを求めてそこにいく。もっど美味しいもの、美しい景色、楽しい体験を競争するように行って、やって伝える。

だけどこの本をを読んで、またそうしたいととても思えない。

行く気になれないところかそうしている人々さえ冷やっかな目で見てしまうことになってしまった。過去の2、3度訪れて同じように過ごした自分ことも含めて。

今はどうか分からないが、高校生の時にはセンター試験に出ないと、韓国の現代史はほぼ学べなかった。歴史教科書の一番後ろにある現代史の少な目のページには実際大事なことは何も書いてあったとは思えない。

興味がある人は大学に進学して余裕が出ると、書籍を探したり、ニュースを探したり、それもなければたまにそれらを主題に発表される映画や劇などで間接的に、なんとなく「そんなことがあったらしい」と言うふうに触れるくらいだった。

こんなに、ここまで、詳しく描写されて、まるでそれを体験したかのような。このような体験は初めてだ。

ハンガン作家は痛みや欠損がある人物のその痛みを本人当事者のように語るし、夫婦、もしくは親友、家族など真隣で見る立場にいる人物もその人自身になったように書くので、それぞれ人物の痛みそのものと、それを見ることしかできない周りの人だちがもがく苦しみがそのまま読む人に入って来る。少し危険だとさえ思う。

心が弱っている時に読むと、どんどん重く重くなってしまうけど、それもそういう体験として受け入れられるなら、あえて味わうのもいいのかもしれないが、私の場合、そういうHPがほぼ0に近いので、かなりやられてとてつもなく憂鬱になってしまう。

世の中ではあまりにもその点不当、不条理が多く、今与えられた平和に感謝して生きるんだと、よく聞くが、それはどのくらい心で理解しているのだろう?今も起こっている悲惨な出来ことの生々しい画像が、インスタに流れてきては、不当な投稿と処理され見えなくなっているのも簡単に目にする。今運良く平和な環境にいられ、比較的に若しくは確かに自由で、たとえ悲劇を知ったからといってその後取る行動も人それぞれで、それを侵害する必要はないし、できるものでもない。

ただ自分の場合は知れば知るほど、考えれば考えるほど、無力にも憂鬱になる。

作品の中の済州島は、文字もストーリも、登場人物も超えて、島全体の(或は島の一部が酷く)痛みをもつ生きた何かと化している気がするしその痛みも生々しく伝わってくる。そしてそこは内容の悲惨さに関わらずすこいオタク気味にも関わらず大変に興味深いところである。ただの文字が痛みに変換される過程に共感と興味と敬意を感じる。

私は幸いなことと同時に、呪いというべきかもしれんことに、作品を作る環境にいられているので、人の痛みを題にし、その憂鬱をも作品にカケラながらも落とし込み、少しばかりの安易極まる何かやった感を調子良く感じることができるかもしれない。布や絵の具のような物質が痛みと化し、どうにか伝わるように願う。

このような作品と巡り会うたび、どう生きるかやはり考えざるを得ない。少ない知恵でも絞ってみたくなるもので、少なくとも済州島に簡単に休息とグルメを求めて行けないのかもしれない。知らないで幸せだったものが、知ったことによってより悲観的になってしまうとしても、知ることを選ぶ側にいたいと、(憂鬱なので)とても消極的に思う。

2025.8