한강.작별하지않는다

この本が2度目のハンガン作家の本だった。済州島は今は遊び場だ。人々は休息と美味しい美味しいを求めてそこにいく。もっど美味しいもの、美しい景色、楽しい体験を競争するように行って、やって伝える。
だけどこの本をを読んで、またそうしたいととても思えない。
行く気になれないところかそうしている人々さえ冷やっかな目で見てしまうことになってしまった。過去の2、3度訪れて同じように過ごした自分ことも含めて。
今はどうか分からないが、高校生の時にはセンター試験に出ないと、韓国の現代史はほぼ学べなかった。歴史教科書の一番後ろにある現代史の少な目のページには実際大事なことは何も書いてあったとは思えない。
興味がある人は大学に進学して余裕が出ると、書籍を探したり、ニュースを探したり、それもなければたまにそれらを主題に発表される映画や劇などで間接的に、なんとなく「そんなことがあったらしい」と言うふうに触れるくらいだった。
こんなに、ここまで、詳しく描写されて、まるでそれを体験したかのような。このような体験は初めてだ。
ハンガン作家は痛みや欠損がある人物のその痛みを本人当事者のように語るし、夫婦、もしくは親友、家族など真隣で見る立場にいる人物もその人自身になったように書くので、それぞれ人物の痛みそのものと、それを見ることしかできない周りの人だちがもがく苦しみがそのまま読む人に入って来る。少し危険だとさえ思う。
心が弱っている時に読むと、どんどん重く重くなってしまうけど、それもそういう体験として受け入れられるなら、あえて味わうのもいいのかもしれないが、私の場合、そういうHPがほぼ0に近いので、かなりやられてとてつもなく憂鬱になってしまう。
世の中ではあまりにもその点不当、不条理が多く、今与えられた平和に感謝して生きるんだと、よく聞くが、それはどのくらい心で理解しているのだろう?今も起こっている悲惨な出来ことの生々しい画像が、インスタに流れてきては、不当な投稿と処理され見えなくなっているのも簡単に目にする。今運良く平和な環境にいられ、比較的に若しくは確かに自由で、たとえ悲劇を知ったからといってその後取る行動も人それぞれで、それを侵害する必要はないし、できるものでもない。
ただ自分の場合は知れば知るほど、考えれば考えるほど、無力にも憂鬱になる。
作品の中の済州島は、文字もストーリも、登場人物も超えて、島全体の(或は島の一部が酷く)痛みをもつ生きた何かと化している気がするしその痛みも生々しく伝わってくる。そしてそこは内容の悲惨さに関わらずすこいオタク気味にも関わらず大変に興味深いところである。ただの文字が痛みに変換される過程に共感と興味と敬意を感じる。
私は幸いなことと同時に、呪いというべきかもしれんことに、作品を作る環境にいられているので、人の痛みを題にし、その憂鬱をも作品にカケラながらも落とし込み、少しばかりの安易極まる何かやった感を調子良く感じることができるかもしれない。布や絵の具のような物質が痛みと化し、どうにか伝わるように願う。
このような作品と巡り会うたび、どう生きるかやはり考えざるを得ない。少ない知恵でも絞ってみたくなるもので、少なくとも済州島に簡単に休息とグルメを求めて行けないのかもしれない。知らないで幸せだったものが、知ったことによってより悲観的になってしまうとしても、知ることを選ぶ側にいたいと、(憂鬱なので)とても消極的に思う。
2025.8
