
中学時代、家で耳にタコができるほど聞いていた言葉は「책좀읽어라!!」
本ちょむ(強調の勧誘)読めやだった。別に反論や言い訳ができないほど本が嫌いで見るのは仕方なく教科書と当時興味があったヨーロッパ辞典、大きくなったら旅行したかった。それはおそらくエヴァと出会う前で、日本文化や日本について何も分からない知らない時代の僅かな時期のことだったと思える。
とにかく本ぎらい、そしてテレビ嫌い。頭を空っぽにしてぼーっとして眺める自分の姿を認識すると、目の前の映像の楽さを上回りその状態を嫌がっていた。ぼーっとしている自分が嫌だった。
「カフネ」は小説で、読んでいる間ずっと頭の中でキャラクターの顔や声、食べ物の形、色、味、温度が見え、さらには人物の心の状態、感情、悲しみ、考え、記憶まで目にみえる。まさに映像で、どちらかというと没頭できてしまうドラマだ。
自分の嫌いの集合体である。
不思議なものだ。最近頭が痛くなりすぎて憂鬱になるような哲学書を読んでいて、少し気分転換したいと思い、手に取ったものだったが、哲学なんかとっくに忘れてしまって、いわゆる一気読みというか、一気見したと言うべきだと思う。どうしてテキストになるとここまで嫌いな物も反対になるのだろう。
内容が、扱っているコンテンツの豊かさー人間との繋がり、人間の心、ATフィールドの崩壊過程、それらのストーリーに着きそう数々のディッシュのペアリング、悲しみが美味しいに変換される際はなつエメラルドの透明で濃い光の結晶、考えるべきクィア、社会弱者、社会問題のスパイスが一つになった濃厚な一品。
これだけパンチが効いていたら、嫌いなピーマンを克服でき,,
思い出そうにも、自分にとって「味」が大切だった記憶はあまりないように思える。韓国から日本に移り住んで16年目になるが、最近はもう韓国でも日本の納豆とポン酢があるし、日本にもモンシェルトントンと까나리액젓(イワシの塩漬け半分発酵汁?)がある。チョングッジャンや本格ハルメゴムタンは食べられないが(いやもしかしたら食べれるかもしれん)ほとんど故郷の味が再現できなくもない。なんならいけばいいし。
ある味が自分に切なさとして作用するのもない自分が味に切なさを働かせることもなかなかない。
だけど、日々作る3人の娘への味は、彼女らはその味をどう受け止めているのかな。日々日々ぷくぷくと太っていく様子を見ると、きっと味は要するに悪くはないはずで、しかしながら毎日変わっていく味は紛れもない私の一部をいつも分けているに違いない。
間違いなく半分以上占めている決して明るくない私の作家としてのアイデンティティに、韓国と日本を行き来する性格上の何か。3人の娘の育児から来る慢性的な疲労。時々どっからどう見ても理解に苦しい本と格闘していると思うと、ネットフリを見ながらお部屋専門家の如く作品の歴史を語るオタクぷり。ニュージンズのカムバックをBTSより待つ推し圧(?)から民主主義の歴史とインドの数学に興味があるような、全く予想できない母が作る毎日の不安定な味を、彼女らはどう感じるのだろうか。
カフネを通して、人生に寄り添う味の大切さを、子供たちに与えられたら、
ピーマンが克服できない味だとしても、
一皿でも人生の角で思い出せる味を作ってあげられたらいいと、心底思う。






