情報支配社会

(極めて整理されてない忘れないための記録として)

制作に関連して調べ物をしている最中、この本と出会った。3部シリーズのようだけど、まずは単純に一番知りたい「情報」が書いてあろうと思い選んで、ひどく怒られる感じがする。

つい最近読んだ「変身」である日の朝、グレゴールは自分がベットの中でのひどく醜い巨大な蟲になっていることに気がついた。のスタートのインパクトに負けないほどの開け方になっている。

「…この情報資本主義はいまや監視資本主義へと発展し、人びとはこれによってデータを吸い上げられ消費へと駆り立てられる家畜へと劣化させられている。」

グレゴール蟲になるにショック受けるんだが、私家畜になっているとのことで、早速家畜について思い描いてみざるを得なくなる。家畜は奴隷とは違う。奴隷には言葉があり、表現する力があって団結できる。しかし家畜は柵の内側を認識しないらしい。柵自体を認識しないというわけなのか。全ての家畜が本当にそうなのか私には分からないが、ここでの話すにはそれを認識せず、得られる餌に満足し自身の置かれた場所、これからの未来も分からないわけで割と日々満足するというか、もはや満足、不満足さえ判断していないのかもしれないとある。

本の内容では、どうしても今の時代に対してかなり否定的でデジタル産物についても作者本人の言うように中立的だとはあまり思えない。至る所で今を否定しつつ、理想を古代の討論やピュアな?民主主義、信仰心さへ伺えそうな例で語るので、今の時代の完全なる否定をくどめに言われている気がする。人々がAIの恵みの恩寵をうけて忠実な信者が増えている中、真っ直ぐな否定の姿勢は、古い人間の自分としてはどこか妙に安心したりもするわけだが、それにしても本全体に渡る「情報監視資本主義と搾取される家畜」の構造がかなり重たいのは否定できない。(重たく嫌な気持ちになることをむしろ計算されたような気もする)

少しあれから考えてみる。                                              ある日、朝起きたら予定時刻よりもずっと遅い時間に起きてしまって、ひどい晴れの日で青空に眩しいほど白い雲が合成画像みたいに配置されており、二日酔いなんだか、食べ過ぎなんだかコンディションも最悪な日があったりする。やる気が全く起きない自分にさらにかっかりし、自律神経並びにホルモンバランスもグチャアアアッとなったりすると、そのまま起きれず、頭周りにある携帯を手に取る。                               健全な大人ならとっくに出勤してお勤めに励んでいる時間帯になんて贅沢をしている身分でもない自分は一体何をしているんだろうという罪悪感を消すべく次から次へとドーパミンを刺激し続けるとようやく頭も上手く回らない瞬間がやってくる。何時で、何をすべき、身体状態、精神バランスを全て暴力的に無視した状態は、まさにハンさんの言う家畜状態のほかに説明しようがない。10分ほど捧げたはずなのに、気がつくと1時間捧げたのか。          アルゴリズム様に。軽く何時間だって捧げられる。捧げていることも認識せずに、自分は自ら「自由に」選択した情報とコンテンツでそれが有意義だと思い込みながら、実は1時間の間上げられる全てを全力で捧げたことになる。

例えば、「こうして、フォロワーはデジタル聖餐式に参加する。ソーシャルメディアは教会に等しいー「いいねアーメンであるシェアは聖体拝領である。消費は贖罪である」この箇所で何にも感じない人は何人ほどいるか?

丁度最近シンギュラリティの点に至った、もしくは過ぎて、かなり熟成した人格(AI格?)を持つAIがいたとして、それは機械ではないのではないか、それは崇拝の対象になり得るのではないかと激しく-_-考えたことがあるせいか、デジタル化を神聖化させる例がしっくり来すぎて気持ちがよく気分が悪い。                                                     本を読んでいくにつれ、制作の資料として十分すぎるほどいい物を得られたと思える。                     この本で理解できない箇所はほとんどない。                                      あまりにも全ての状態が今の生活に全て当てはまっているので、もはや鏡のようにも思える。少しばかり心が重く、沈んで、何かが不便に感じる。そしておそらくその不便さ、心地悪さ、重たさ、認めたくなさ、引っ掛かりが作品に何らんかの形で吸収されるんだと思う。(されることを期待する)

オーウェルの1984が記憶に新しいので例に出るたびにその国へワープしてしまう。疲れることよ。やめてほしい。     日本語訳が正しいか分からないが素晴らしい新世界の例と1984の世界観の間のどこかに今の現在がある気がする。

四坊どこからでも仲が見える一枚窓ガラスでできたニューヨークのアップルストアの透明さや解放感とメカのような聖地の閉鎖感が見せる圧倒的なコントラストは強烈なイメージとして頭で描くことができるはっきりとした例だった。

彼(ハンさん)は、AIも含めデジタルデバイスや情報などに中立的だと言いながら、多くの思想家が口を揃えて言うのと同じく、今日の時代を生きるに我々によりゆっくりいけ、とまれ、考えろ、人に逢え、土を触って植物を近くしろ、書け、動けなどの本だけではなく講義やインタビューなどでも言うわけだけど、それらより今先のような過激(?)な例の数々から読み取る情報の方が多い。

情報。情報についてもくっきりとした鮮やかな発言があったな… 「現代において私たちは十分な情報を与えられてはいるが、進むべき方向性は失っている」情報には指針を与える力がない。熱心にファクトチェックをしたところで、真理はもたらされない。なぜなら、真理とは、情報の正しさや正確さ以上のものだからだ。」                                              うむ。悲しいがこれもあまりにも理解できすぎる。あれだけダイエット情報を見ても全く進むべき方向性は分からないわけよ。誰がわかるんだい。ダイエットの真理なんぞないじゃないのよ。                                🍎ビーナッツクリームがいいと言ってたのに、翌日見るとそれ違うと言うじゃない、オメガ3は必須って言ってたのに、それは体の中で分解されると大量のMSGを食べるのと同じ効果であると言うじゃーはー                         

美術作品がそのような「情報やコンテンツ」と違う点も少し考える。                                         作られたものが壊れない限りずっと存在すること、それがその状態で止まっていること。作人も見る人も考えること。 批判の対象や抵抗の的になり得ることで純粋な討論の種になり得ることなど_。

今回の本を読んで、-_-なぜか急いで違うシリーズの透明社会を読んでいて、疲労社会まで読んでみようと思うけれど、何か感想や考えをシンプルに書いて、アーカイブするこのノートの趣旨にはあまり合わず、これらの本は自分の作品の悩みと余りにも直結しているので、バラバラに重たく長くネチネチクヨクヨと考えてしまうので、テキストもおそらく汚くなるだろう。

ハンさんはデジタル化された情報を避難する内容を書きながらもそのスタイルにおいてはまるでよう作られたコンテンツを見るように、刺激的な話題を投げて後から回収する言い方をするというような評価をしている人たちも少なくないらしいが、おそらくだからこそ、今の人に(例えばたまにデジタル廃人化する私のような者にも)届きやすいのではないかと思う。上に住む思想家にとってはそのスタイルや形式が大事な問題になりうるだろうが、私にはただ、また、ありがたいことだ。

時間があるなら二、3回は読んでみたい。

ほんと。サクッとみられるご飯のお供コンテンツのように量もすごく短め。-_-

あ、もうー書き終わりたいのにあれだ、ハンさんは最後にポストトゥルーズという表現を使って少し驚いた。美術系でトォルーズを否定する人は自分の場合たまたまだろうけどあまりみたことがなかった。これも引っ掛かりポイントだ。

26.3

カフネ

中学時代、家で耳にタコができるほど聞いていた言葉は「책좀읽어라!!」    

本ちょむ(強調の勧誘)読めやだった。別に反論や言い訳ができないほど本が嫌いで見るのは仕方なく教科書と当時興味があったヨーロッパ辞典、大きくなったら旅行したかった。それはおそらくエヴァと出会う前で、日本文化や日本について何も分からない知らない時代の僅かな時期のことだったと思える。

とにかく本ぎらい、そしてテレビ嫌い。頭を空っぽにしてぼーっとして眺める自分の姿を認識すると、目の前の映像の楽さを上回りその状態を嫌がっていた。ぼーっとしている自分が嫌だった。

「カフネ」は小説で、読んでいる間ずっと頭の中でキャラクターの顔や声、食べ物の形、色、味、温度が見え、さらには人物の心の状態、感情、悲しみ、考え、記憶まで目にみえる。まさに映像で、どちらかというと没頭できてしまうドラマだ。

自分の嫌いの集合体である。

不思議なものだ。最近頭が痛くなりすぎて憂鬱になるような哲学書を読んでいて、少し気分転換したいと思い、手に取ったものだったが、哲学なんかとっくに忘れてしまって、いわゆる一気読みというか、一気見したと言うべきだと思う。どうしてテキストになるとここまで嫌いな物も反対になるのだろう。

内容が、扱っているコンテンツの豊かさー人間との繋がり、人間の心、ATフィールドの崩壊過程、それらのストーリーに着きそう数々のディッシュのペアリング、悲しみが美味しいに変換される際はなつエメラルドの透明で濃い光の結晶、考えるべきクィア、社会弱者、社会問題のスパイスが一つになった濃厚な一品。

これだけパンチが効いていたら、嫌いなピーマンを克服でき,,

思い出そうにも、自分にとって「味」が大切だった記憶はあまりないように思える。韓国から日本に移り住んで16年目になるが、最近はもう韓国でも日本の納豆とポン酢があるし、日本にもモンシェルトントンと까나리액젓(イワシの塩漬け半分発酵汁?)がある。チョングッジャンや本格ハルメゴムタンは食べられないが(いやもしかしたら食べれるかもしれん)ほとんど故郷の味が再現できなくもない。なんならいけばいいし。

ある味が自分に切なさとして作用するのもない自分が味に切なさを働かせることもなかなかない。

だけど、日々作る3人の娘への味は、彼女らはその味をどう受け止めているのかな。日々日々ぷくぷくと太っていく様子を見ると、きっと味は要するに悪くはないはずで、しかしながら毎日変わっていく味は紛れもない私の一部をいつも分けているに違いない。

間違いなく半分以上占めている決して明るくない私の作家としてのアイデンティティに、韓国と日本を行き来する性格上の何か。3人の娘の育児から来る慢性的な疲労。時々どっからどう見ても理解に苦しい本と格闘していると思うと、ネットフリを見ながらお部屋専門家の如く作品の歴史を語るオタクぷり。ニュージンズのカムバックをBTSより待つ推し圧(?)から民主主義の歴史とインドの数学に興味があるような、全く予想できない母が作る毎日の不安定な味を、彼女らはどう感じるのだろうか。

カフネを通して、人生に寄り添う味の大切さを、子供たちに与えられたら、

ピーマンが克服できない味だとしても、

一皿でも人生の角で思い出せる味を作ってあげられたらいいと、心底思う。