
なんの事前情報なく完全に小説を読む時の楽な状態で読み始めた。
読み終わった後もかなり長い時間後を引いたし、読む間も数回、中の出来ことについて考えさせられる(無理やり考えざるを得なくさせられ)読み終わるまですごく時間かかった。そして整理して文字で残すまでも今まで読んだ本の中で一番時間がかかっている。
背景を少し探してみると、作者の戦争参加による体験、故郷に戻った時の政治的な状況に基づいたものと知って、ある意味少し安心した。何かの預言者である日こんな内容が降ってきましたで書かれたものなら、世の中でどんな頭脳がどのタイミングに何に気がついて、何が始まっていくのかという当てもない不安がさらに掻き立てらる。
本当に恐ろしい物語だし、それが物語ではないということ。事実として進行過程でいることを確認するたびに、そのジャンルが文学だろうが、予言だろうが、恐ろしい。
本当に。恐ろしい。
読み終わった後にAIに2つ聞いてみた。この本をやたら名門大学の学生が読み込んでいる理由。そして1984の時代は来るかについてどう思う。
1つ目は、支配側の教科書であり、支配される側の教科書でもある。という理由で読む。つまりいかなる方法で人はコントロールされるのかに対するマニュアルブック。もう一つはまだその世界に到達していない状態でいかにそれを遅らせられるか。いかに効率よく足搔くかの反面教師のような資料として。
2つ目については即答でこの世界は確実に来る。
という嫌な答えを確認するまでもないのにわざわざ確認しておいて、後悔した次第であった。
小説中では(何かの)テクノロジにより一気に生活が安定し、一生懸命に収入を得なくはならないことから解放された人類の階級を狂わせることをよしのしない支配層(富裕層)が、ドイツやソ連から得たものを更にグレードアップし、崩壊しない完全な監視社会を構築するという設定などだが、このテクノロジーによる生活の安定。収入のため命を削らなくてもいいというフレーズを、もう小説として眺められない。つい昨日かイーロンさんは3年以内に貨幣の価値はなくなるといったそうだが、小説中では仮のこのAI技術が出た後50年で、ビックブラザーの支配する社会になるという。
人の思考をできなくする方法としてニュースピック、イングソックという概念がある。



言葉を極限まで減らすという方法で、大体の形容詞はまずなくなるだろう。
いい、悪い、という表現においては悪いという単語をわざわざ使う必要性がないという話で、いい、悪いはいい、よくないになる。今まで使っていた言葉が数ヶ月後は誰も使わない言葉となり、その言葉を使いつつけるとマズい空気になる。というもので、
これも、やはフィクションだとは思えない概念である。
NZだとかZだとかの世代で使う言語は変わっていてどんどん短くなっている。韓国語なんかは本当にありとあらゆるものを短くする。
SNS用語も別にある。
古典を読んでいて、これって、、、なんだっけと思う時があるのって。普通だと思う。
言葉は確実に減っている。それも我々が進んでそれをやっていないかな、遠も思う。
二重思考というものも出てくる。
国家は過去の過ちから学び我々を良いところに導くと100%信頼しながら、
国家は絶対で1度も間違いがないと100%考えることで、これは子供の頃から訓練することによって身に付く。まるで超能力だ。
改装して書いているので、思い出すからなお恐怖を感じる。
今まで生きてきてこれらよりも恐ろしいものはないと思う。TT _TT
資本主義に疲れた人々が選ぶ平等への憧れは社会主義に自然と流れる。
思考は少なく、短く、なくなっていく。AIは人にとって買われる。ビックデータ企業は実際に存在する。50年後(数字は大事じゃない)いきなり空が見えないほどのミサイルで空爆があって、気がついてみると全てが変わっていく、変わっている。。
こんなことを考えながら読まなくちゃいけない本である。辛い!!!間違いなく辛いぞ!!辛い怖い分だけ大事だ。
話がそれでしまうが、ふとこんなのも考えてみる。
昔の人は体に服を合わせて作っていた。袖、肩、腰、裾の長さも自分に合わせて家族で作るか、作ってもらうかの時代。私たちはXL、L、M、Sで大体別れる。120,130,160,とかもある。今だってお金を出せば作ってもらえるけど、1から自分の体に合わせるって、ウェディングドレスもそこまでしない。
昔の人が、今の自分らをみると、なんて荒くなんて雑だろうと思うではないか。
みんな服に自分の体を合わせているものだから、むしろ哀れだと思える。
小説のウィンストンに視点を変えてみる。
ゴムが腐った匂いのジーンを飲み(飲んだ後は必ず全身痙攣する不味すぎてだと思う)、24時間寝言も監視されるテレスクリーンと死ぬまでの付き合いになる。カミソリは手に入らないし、50年以上文明は退化していると感じている。でもそれがその人の生きる時代だ。テクノロジーは発展し、そして意図的に退化させられている。
ウィンストンは経験していないが、おそらく今のこの時代を憧れる。
何かが狂う前の今の時代。昔からすると、とんでもなく荒くなっているけれど、
表現の自由と、個人の心の中の自由がまだ許されている(ような形で了承される)この時代に憧れる。心の中までは支配できない。できるか。いや、できない。と思う。
ここで、作品と結びつけて考えを巡らせてみる。
幸いまだ我々にはまだまだ豊かな言語もあるし、表現できるツールもたくさんある。
文学、ファッション、音楽、アート、芸術の範囲は広く、作家だちはその境界を拡張することへの意志と動機が持てる。持てる自由がある。
どんな環境でも、何をされても、人の心の中は、自由だ。とばかり思えたであればあるほど、この本は怖いものになる。
目に見えない、形のない暴力は人の自由と発想とやる気を完全に無気力化することができる。
1984の暴力は外側から殴りつけるものではなく、内側の構造に入り込み、形そのものを書き換える力だと分かる。

自分には最終的にウィンストンが自分自身の監視者へ変わり、自ら進んで自分を再構築することが最も恐ろしい部分だった。憧れた時代への情熱も、愛も、疑いもなくなって完璧に再構築を遂げていく過程が、つまり、完璧に支配される側へと変わる様子が生々しくて…
1984が描く暴力は破壊ではなく、再設計としての暴力であり、
作品NocedraやFlowerもその点の脈略を同じくしている部分を発見する。
おそらく自分の描いている花や、Nocerdraで表現する痛みの抽象的なアウトプットは、ウィンストンが自分を守る(自分の心の自由を)ベく最後まであがいた結果の状態に近いと思える。
作品で表現しているものは確かな私自身の体験、経験からきた痛みで私の知っている痛みで、自分なりにそれに対抗し足掻いた結果出せる表現であるのは間違いない。
外部からくる暴力、コントロールに対して、痛みそのものを視覚化する。それが表面的な制作の動機だった。
自分の個人の情報を全く発することのできない社会からみると、とんでもない反逆者だ。
純粋な権力そのものだけを望む支配層からみると、個人が自分のやられ具合を表現する、発表する、知らせる、共感を得ようとするなんて、真っ先に101室に連れて行かれるやつだ。
しかし、それだけではとてもとても話にならないほど弱いのも発見する。
結局ウィンストンの心は綺麗に再編集、再構築された。生まれ変わってしまった。
痛みだけを訴える作品の限界もそこにあるのだろう。
まるで痛みを解らない人(がいたと想定して)でも、いかにして、人は痛みを感じ、いかにして誰かにコントロールされるのかを、構造的に理解できる作品にしなければならない。
どうせ、それっぽい時代がきてしまうのなら、
1日でも、遅らせたほうがいい。
今の自分はプロールではないか?
ジュリアになれるか。もしくは魅力的なオブラエインになれるかな。
この瞬間をどう生きたほうがいいのか。ーまじで難しい。
2025.11.2

